よく晴れた日だった。こんな日は空気が澄んでいる。そして空気が澄んだ秋の朝には必ず、彼らに出会う。古びた窓は開くとガタンと音をたてた。別に呼び出せばいつでもすぐに会えるのだけれど、こんな気持ちのいい朝にこうして出会うのにはまた違う嬉しさがある。歳を取ったからだろうか、最近そうした少しのことも気にするようになった。窓枠に頬杖をついて窓の外を眺めていると、やがて軽快な足音と共に荒い息遣いが聞こえてきた。
遠くの方から茶色の塊がまっすぐ突進してくる。窓枠の下まで来ると、ふさふさした尻尾を千切れんばかりに振り回し、少しでも窓枠に近づこうとするかのようにぴょんぴょん跳ねる。
「おはよう、次郎」
まるで返事をするように、次郎はワンと元気よく吠えた。日本犬を模した兵器である次郎も、普段は普通の犬にしか思えない。飼い主に似るというのはよく言ったものだけれど、次郎の場合も例外ではないようだった。遠くから走ってくる飼い主の姿を捉えて、綱吉は手を振った。相変わらず爽やかな朝によく似合う男だ。彼以上に早朝ジョギングが似合う男を綱吉は知らない。相手はこちらに気づくと片手を上げた。
「おはよう、山本」
ジョギングを終えてゆっくり歩いてくる彼に、綱吉は声をかけた。その男・山本も、首にかけたタオルで汗を拭いながら挨拶を返す。彼が歩くたびに落ち葉の絨毯がかさかさと乾いた音をたてた。
「はよ、今日も早いな」
晴れた日の朝は二度寝を止め、少し早起きすることにしたのは、つい最近のことだ。それも単に彼のジョギング姿が見たいから――とは、言わないけれど。
「次郎お前、俺を置いて先にツナんとこ行くなんてずりーよ!」
山本はしゃがみこんで、次郎の頭や体を乱暴に撫でてやる。次郎も撫でて貰うのが嬉しいのか、すぐ腹を出して寝転がった。まるで子供同士がじゃれて遊ぶように、山本は次郎のことをわしゃわしゃ撫でる。十年前から変わらない、飼い主と飼い犬の姿だ。
「……変わらないね」
綱吉はそんな彼らを見ながら呟いた。
「まぁ、コイツは歳取らねーからなー。昔はコイツとかけっこすると俺がギリ勝てるときもあったんだけど」
もうオッサンだから無理だなー。笑って山本は立ち上がった。
「……ツナは、変わったよな」
山本は少し困った顔をして呟いた。山本が変わったところと言えば、この曖昧な表情をするようになったことぐらいか。綱吉は思って、何を言われるかと少しだけ身構えた。
しかし続いた言葉は、綱吉の不安とは正反対のものだった。
「綺麗になった」
……本当に、山本は昔と変わらない。女性相手に言えば喜ばれるであろう口説き文句も、綱吉相手に平気でホイホイ垂れ流す。昔からそうだ。その度に赤面していたのだが、きっと綱吉をからかうために言っているに違いない。思えば山本の言葉は綱吉を幸せにするものばかりで、咎める類いのものはなかった。だから、変わらないでいてくれることこそが綱吉の救いでもあったのだが、それを彼に言うのは気恥ずかしいから黙っておくことにする。
「バカじゃないの」
ぷいと顔を背けると、かさと落ち葉を踏む音がして、不意にこめかみにキスが落ちてきた。
「そういう可愛いところは変わってねーよな」
山本はからから笑う。
「うるさい」
本当に恥ずかしい男だ。成長してますます質が悪くなった気がする。落ち葉をかさかさ踏みしめて、次郎が自分も構って貰いたいのか、ワン、と短く吠える。
「おー、ごめんな次郎。んじゃ、また後で」
「うん、分かった」
そう挨拶を交わして綱吉は窓際から離れようとしたが、山本はまだそこを動く気配がない。
「……まだ何か?」
綱吉が声をかけると、山本は待ってましたと言わんばかりの笑顔で窓からこちら側に顔を出し、指先で自分の頬を示す。……それはつまり。
「ちゅーしてよ、ツナ」
そう言いながら山本は、右の頬をこちらに向けた。
……この男は、本当に。
呆れを通り越して笑えてきた。それでも要求を飲まないうちは帰らないことを長年の付き合いで分かっているので、軽くキスをしてやる。
「やった、じゃあツナ、後でな!」
山本は心底嬉しそうな顔をして、次郎と共に元気よく走っていった。やれやれと肩を落としながらも、思わず笑みを溢している自分に気付く。子供みたいにわざとらしくはしゃぐのは、きっと最近仕事ばかりしていた綱吉を元気づけるためのものだろう。山本は気付かれまいとやっているのだろうが、何せ十年もの付き合いになる。綱吉が気付かないわけがないのだが、山本はそれでも時にわざとらしくはしゃいでみせた。
いつも綱吉を笑顔にしてしまう、そういう男なのだ、山本は。
綱吉は窓をそっと閉めた。部屋の空気は程よく冷えた、新鮮な朝の空気に入れ換わっている。
今日もいい一日になりそうだ。
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