辿り着いた先は海だった。シーズンが過ぎた海岸は静かなもので、辺りには打ち寄せる波の音だけが響いている。日はすっかり暮れて、飲み込まれそうな深い色をした海が眼前に広がっていた。
「やっぱ海だよなー」
車を降りて山本は伸びをする。
「何がやっぱりなんだよ」
「デートって言ったら海じゃね?」
「誰もお前とデートしに来てねぇよ」
まぁまぁ細かいことは気にすんなって、と獄寺を宥める。
「ツナ行くぞ!」
「うん!」
二人は波打ち際に向かって元気よく駆けていった。
「あっ獄寺花火持ってきてー!」
靴を脱ぎながら、振り返って山本は叫んだ。その横を見ると沢田も靴を脱いでいた。二人ともその場に靴を脱ぎ捨て裾を捲り上げて、素足で海へ入っていく。やがてバシャバシャという水音とはしゃぐ声が聞こえてきた。そんな二人の様子に獄寺は呆れた。冷たくないのだろうか。それにあの図体のデカいガキは本当に自分と同じ歳なのだろうか。花火を持ち、二人に続いて砂浜に足を踏み入れた。足場が沈んで歩きにくい。靴は砂まみれになっているだろう、それを思って獄寺は顔を曇らせた。
途中、二人が脱ぎ散らかした靴を拾って、比較的砂の乾いた部分にしゃがんだ。潮の香りが鼻をつく。波打ち際で水をかけあってはしゃいでいる二人をぼんやり眺めた。沢田は出会った頃とは別人のように、生き生きとした表情をしていた。出会った頃、というか――この一週間ずっと、彼は浮かない顔をしていた。学校へ行くときも帰るときも、何かを諦めているような、何かに絶望しているような、死んだように生きているような。
「獄寺、花火!」
山本が沢田とじゃれ合いながら駆けてくる。本当、幾つだよお前。そう思いながら花火を差し出すと、山本は蝋燭を取り出して砂に刺す。
「火!」
矢継ぎ早に注文する山本に多少腹が立ったが、その隣で沢田が目を輝かせていたので、獄寺は黙ってライターを取り出し、蝋燭に火をつけた。強い海風に火を消されないように、ボール紙で風避けも作る。
花火の先を火にかざすと、数秒でパシュンと火薬が弾け、火花が吹き出した。辺りがぱあっと明るくなる。沢田と山本は歓声をあげた。二人はますますはしゃいで、火花でくるくる空中に円を描いたりしながら走り回っている。
「オイ、危ねーぞ!」
火の側で番をしていた獄寺は叫んだ。分かったーと遠くから返事は帰ってきたものの、足は止まっていない。絶対聞いちゃいねー。獄寺は呆れ果て、もう何も言うまいと思った。
※
やがて花火も線香花火を残すのみとなった。沢田は打ち寄せては引いていく波と追いかけっこをするのが楽しいのか、一人で波と戯れていた。燃え尽きた花火を念入りに海水に浸していた山本は、作業を終えて獄寺に歩み寄る。
「あー疲れたー」
そう言いながら山本はやはり笑顔だ。
「もうガキじゃねーんだ、当たり前だろ」
獄寺は呆れ果て、もはや食って掛かる気も起きなかった。
「俺、成長してねーのかな」
「ああ、図体以外は成長してねーな」
「……獄寺は昔から落ち着いてた」
言いながら、山本は静かに獄寺の隣に腰を下ろした。
「……お前、沢田の親にあんな言い訳して、明日からどうするつもりなんだよ」
獄寺は訊ねた。今日は“友達の家に泊まります”で誤魔化せたとしても、さすがに何日も続けたらバレてしまうだろう。
「お前はどうするつもりだったんだよ?」
山本が笑いながら訊いてくる。確かにそう言われると答えようがない。
「何にも考えてなかった……つーか、そうだとしても長い時間連れて歩くつもりはなかった」
そーか、と山本は頷いて、そのまま黙ってしまった。だいぶ遠くの波打ち際に沢田の後ろ姿がぼんやり見える。
「……いざとなったら、何も知らないフリしてお前だけ逃げろ」
山本は静かに言う。獄寺が驚いて隣に視線を向けると、彼は恐ろしいほどの無表情で足元の一点を見つめていた。
「どうせお前、自分で思いついた誘拐じゃねーんだろ?」
計画性ねーし、杜撰だし、何かすぐ捕まりそうだったし。
「俺はテレビ観るし漫画も読むからな」
山本は軽快に笑う。
「……うるせーよ」
獄寺はそれしか返せなかった。確かにその通りだ。
「それに、お前は犯罪とかする人間じゃねーしな」
それが当然、とでも言うようなさらりとした発言に、獄寺は今度こそ言葉を失った。
「……お前は優しいから」
すっと目を細め、山本は薄く笑った。それは十年の付き合いの中で初めて見た表情でもあった。
それも束の間。
山本は元気よく立ち上がって、いつものような明るい声で言った。
「俺、死のうと思ってたんだ」
※
明るい声とは正反対な発言に、獄寺は声色と言動のどちらを信じたらいいのか分からなかった。何だかちぐはぐだ。
「死んだんだ、親父」
山本は何でもないことのように言う。確か彼は父親と二人暮らしだったはずだ。父親は自営業をしていて、山本は大学を出てから父親の店を継いだと聞いていたが。
「……お前それ、何で言わなかったんだよ」
「だって、誰にも言ってねーもん」
山本は言いながらその場で伸びをした。
「脳梗塞でさ……ぶっ倒れてそのまま。で、四十九日過ぎて、フッて思ったわけ。俺、これからどうしたらいいんだ? って」
中学ん時は野球選手になりたくて、高校でも大学でも野球やってたけど、やっぱ現実的じゃねーよな、今時。夢は諦めて店を継いだよ、親父には感謝してるし。でもその親父が死んじまって、何つーかな、気付いたんだよ、生きる目的がねーってことに。
「親父ももう居ねーから生きてる理由もねーし、もういっかなー、って……だから、全部俺のせいにしていいからさ、」
だからお前、いざってときは俺を置いて逃げてくれよ。
そう言って振り向いた山本の顔には、いつもと同じ笑顔が貼り付いていた。
※
彼がいつも笑っている本当の理由が分かった気がした。獄寺は山本のような、いつもヘラヘラ笑っているような奴が嫌いだった。何も考えていないようで、その不真面目な態度によく苛々させられた。
しかし、本当は違った。山本は己の闇に蓋をして、他人に気付かれないように笑顔という仮面を被ったのだ。まるで自己防衛する子供のように。
こいつは本当に、ガキがそのまま大人になってしまったのか。
「……馬鹿だな、お前」
獄寺は呟いた。
「おう」
山本は笑った。
※
一度は消した蝋燭の火を再度点けさせて、山本が線香花火をしようと言い出した。
「ツナー!」
叫んで山本は沢田のほうへ駆けていく。勢いで沢田に思いっきり抱き着いて、勢い余って転倒しかけた。その様子を見ていた獄寺は一瞬ヒヤっとしたが、持ち直したのを見届けて安心した。と同時に、いつの間にか保護者のような視線で二人を見ていた自分に気付き愕然とする。
じゃれ合いながら二人が戻ってきた。
「獄寺くんもやろうよ」
はい、と線香花火を沢田に手渡されて、獄寺は大人しく受け取った。既に、これくらいは付き合ってやろうという気になっていた。
「じゃー誰が一番長く落とさないでいられるか競争な!」
山本が言って花火を火にかざす。二人もそれに続いた。三人で小さく輪になって、それぞれの線香花火を見つめる。夕焼け色の球が膨らんで、やがてパシパシと火花を散らし始める。
獄寺には、どうしても訊いてみたいことがあった。
「……沢田」
「何?」
沢田は線香花火から目を離さずに答える。それを横目で確認して獄寺は続けた。
「自分の家が嫌いか?」
沢田の指が微かに震えた。山本は何も言わない。
空白が数秒続いて、沢田は重い口を開いた。
「……嫌、だよ……俺、ヤクザなんか嫌い。父さんは俺に跡継ぎをさせようとするけど、俺はそんなの嫌だ」
そう言ったきり、沢田は黙ってしまった。火花の勢いは弱まり、ブルブル震えながら今にも落ちそうだ。
「……俺も自分の家が嫌いだった」
獄寺の発言に、沢田が顔を上げた。その拍子にボタリと球が地面に垂れた。獄寺の花火も風に煽られ落ちた。山本の花火はいつの間に落ちたのか、彼は二本目に火をつけようとしている。
獄寺は続ける。
「俺は親父と愛人との間に産まれた子供だ。でも俺はそのことを小学生になるまで知らなかった。しかも知ったきっかけは、近所の奴らが俺の噂をしてたから」
二本目の花火はすぐ落ちた。
「俺には姉貴がいるが、姉貴は本妻との間に出来た子だ……噂を聞いたとき納得したぜ。確かに母親の、姉貴と俺に対する態度は違ってた」
山本が今度は線香花火を数本まとめて火をつけた。火の球はブルブル激しく震えながら膨らんでいく。沢田は蝋燭の炎を見つめながら黙っていた。
「俺は誰のことも信じられなくなって、中学を卒業するまで待ってから家を出た。それからずっと、一人のほうが楽だと思ってた」
やはり重さに耐えきれず火種が落ちた。
「……でも」
獄寺は一度深く息を吸い込んだ。自分のことを他人に話したのはこれが初めてだった。ゆっくり息を吐き、口を開く。
「こんな俺にも、信頼してくれて、十年もつるんでくれる馬鹿がいる。一緒にいて迷惑ばっかりかけられたけどよ」
誰も何も言わなかった。黙って蝋燭を見つめている。風に煽られて時々消えそうになる炎は、三人の顔をぼんやり照らしていた。
「沢田」
沢田はゆっくり顔をあげる。獄寺は彼としっかり視線を合わせて、言った。
「本当に家を出てぇんなら、俺が本当にお前を誘拐してやる」
強い風が吹いてきて、蝋燭の炎が、消えた。
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