中学の頃に遊びに行った山本の部屋は、壁には好きな野球選手のポスターが貼られて、部屋の隅にはスポーツ雑誌が積み上げられていた。野球のことならテレビだって新聞だってチェックしていた。玄関に立て掛けられた使い古しのバットのことも、大切に磨いていた茶色いグローブのことも覚えている。放課後、学校の野球場に行けば必ずと言って良いほど彼がいて、野球をしているときが一番楽しそうだった。俺が好きな山本武という人は、そういう人だった。
俺が宛がった山本の部屋には、テレビがない。雑誌も新聞もない。ベッドとテーブルとソファしかない、あの頃と比べたら酷く殺風景な部屋だ。
テレビは点けたとしても、スポーツ番組は観ない。ニュースのスポーツコーナーになればそっと席を外す。草野球をしている少年達を見れば眩しそうに目を細め、背を向ける。
十年の間に山本をこんな風にしたのは俺だと自覚していた。俺のために山本は野球を捨てた。俺は山本を切り捨てられなくて、山本はそんな俺の我儘を聞いてくれた。でも俺は山本の全てを奪うつもりなんてなかった。野球だって出来る限り続けさせたかった。それでも山本は俺の側にいてくれると言ったとき、自ら全てを放棄した。未練など残さない。そう言った。
俺は山本に辛い思いをさせたくなかったし、山本がやりたいなら野球だってやらせたかった。だからある晴れた日、仕事の合間に散歩に行こうと連れ出した広場で、こっそり持ってきたグローブとボールを押し付けた。
山本は腕の中のそれらを見てあからさまに顔をしかめた。
「山本、野球嫌いになったわけじゃないんだろ」
山本は俺のために我慢しているんだと思った。だからそんなに無理しなくても大丈夫なんだと、教えるつもりだった。
「当たり前だろ」
「じゃあ、」
俺の言葉を遮るかのように、山本はグローブを地面に叩きつけた。ボールは腕からこぼれて地面に落ちた。ボトリと重く力ない音がした。
「余計なことすんなよ」
山本は静かに怒っていた。滅多に怒らない山本は、いざというときには静かに不快感を露にする。それは沸々と湧き出るような怒りで、滅多に怒らない分だけ、怒ったときは怖い。憤慨して怒鳴ってくれた方がまだ分かりやすいのに、それをしないから余計に怖い。
「忘れたいんだよ」
静かにそう言って、俺に背を向けた。俺と、グローブとボールに。
分からなかった。どうしてそんなことを言うんだ、あんなに好きだったものを忘れたいだなんて。それはまるで自分で自分の来た道を否定しているようで、俺は山本のそんな態度が気に食わなかった。できれば野球をやっていたあの頃みたいに、自分の一番好きなことをして笑って欲しい。野球をしていた時のような笑顔を、もう随分と見ていない気がする。
「俺は山本に野球を続けて欲しいんだよ」
そう言うと山本は振り向いて、俺をぎりと睨み付けた。思わず足がすくんでしまうほど、怖い表情をしていた。
どうして、と言いかけた所で、突然山本の腕が伸びてきた。その手は俺の肩を乱暴に掴む。ぎりと握られて思わず顔をしかめた。
「……嫌なんだよ、思い出すのが」
眉間に皺を寄せたまま山本は怒鳴った。
「悪かったな未練タラタラで! 見れば思い出すんだよ、楽しかったことも捨てた時の苦しみも! 後悔したくねぇから出来れば全部忘れてぇんだ、好きだったことさえ忘れてぇんだよ!」
今まで抑え込んできた感情が一気に爆発したように、怒鳴った。声は怒っているのに顔はどこか悲しそうで、泣きそうにも見えた。
「……俺はツナに懸けるって決めたんだから、思い出させないでくれよ」
最後にそう呟いて、力なく笑う。その表情を見て、仮にもう一度山本がバットを握ることがあっても、以前のような彼には二度と戻らないのだろうなと、思った。
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