顔を洗って部屋に戻ると、男がそわそわした様子で座っていた。脱衣所から出てきた俺に気づくと、慌てて立ち上がって更にそわそわし出した。俺がいるのが落ち着かないのだろうか、でも自分で連れてきたんじゃん。
「……タオル、ありがとうございました」
言いながら差し出すと、男はあぁと曖昧な返事をして受け取った。
男は視線を宙に忙しなく浮かせている。俺はどうしたらいいのだろうか、このまま帰るべきか、俺を部屋に連れてきて一体、と俺が突っ立ったまま考えていると、突然男がガバッと頭を下げた。
「悪ぃ!」
突然の出来事に俺は面食らった。男がゆっくり顔を上げると、そこには困惑の表情があった。
「……部屋に連れてくるとかマジねぇよな、俺もどうしようかと思ったんだけどお前酷い恰好だったし、誰にもあんな所見られたくねーだろうなって、そんで……あーとにかく、ごめんな」
つまり彼なりに最大限に気を使った結果がこれだった、ということだろうか。しかし俺にとっては彼の謝罪内容なんかどうでも良かった。
「いえ、助けて頂いてありがとうございました」
俺にとってはとにかくあの状況から救ってくれたことが一番重要なのであって、更にそこまで気を回してくれるというのならプラスアルファで感謝したい気持ちなのだ。
男は顔を上げると、でも、と俺に尋ねた。
「何で野球部の部室なんかに」
「……あぁ、それは」
説明しないとおかしいだろう。俺は野球部員ではない完全な部外者だ。しかし説明するためには、俺の恥ずかしい“教室で犯されかけました体験”をさらけ出す必要があったので少々躊躇ったけれど、彼には今しがただって同じような状況を見られているので、恥じらいなんか今更だろう。簡略に(勿論、省いたのはあのシーンだ)説明すると、彼は眉間に薄くシワを寄せて少々考え込むような仕草をした。
「……でもさ、それ野球部の奴のじゃなかったら、どうするつもりだったんだ?」
男の問いに、俺は自分の推理の矛盾に今さら気付いた。
というのも、俺はロンシャンの「あの時間に部活が終わったのは野球部だ」という情報だけを頼りに野球部の部室まで来たわけであるが、逆に言えばその情報だけでは“助けてくれたのは野球部の人である”と確定することは出来ないからだ。例えば他の運動部の人が一人、部活を早めに切り上げて教室に立ち寄ったのかもしれないし、運動部は運動部でも室内競技の方かもしれない。もしかしたら運動部の人ですらないかもしれない。何故野球部の部室に行ってしまったのか、俺は自分の思考の甘さに呆れた。
肩を落とすと、それを黙って見ていた男がくすりと笑った。
「そのタオル、野球部の部室に置いてきちまったんだよな?」
俺が頷くと、男は続けた。
「俺が後で持ち主探して、返しといてやるよ」
そう言って爽やかな笑顔をこちらに向けてきた。あぁこういう人がモテるんだろうな、と思わず感心してしまいそうになる、スポーツマンらしい笑顔だ。
でも、会ったばかりの相手に何故ここまでしてくれるのだろう?
「……なぁ、お前さ、さっきも言ってたし俺も見たけど……しょっちゅうああいう目にあってるわけ?」
ああいう目――つまり強姦されそうになる、ってことだ。まぁそうですね、と俺が苦笑すると、彼は再度眉間にシワを寄せて、そっか、と呟いた。
「ま、こういうのも何かの縁だし……万が一また何かあったら遠慮なく言ってくれよ。力になっからさ」
そうしてまた笑顔を向けた男は、三年の山本武と名乗った。
部屋に戻ってロンシャンに山本のことを尋ねると、わぁ沢田ちゃん知らないの有名人だよ!と飛び上がって叫んだ。そんなこと言ったって知らないもんは知らないよ。俺は他の一年と違って編入してきたんだし。
ロンシャン情報によると、山本は野球部に所属しているわけではなく、色んな運動部でピンチヒッターをしているらしい。それが今日はたまたま野球部だったというわけだ。なるほど、初対面の俺を助けてくれるなんて……と思ったけど、それは常日頃から助っ人役だからなのか。職業病みたいなものかもしれない。それとも彼の人の良さが先行するのだろうか、人好きのする笑顔を思い出した。
「有名人と知り合いになれて良かったね、沢田ちゃん」
ロンシャンはへらへら笑って、オーディオのスイッチに手を伸ばした。途端に爆音で曲が流れてきて、俺は咄嗟に耳を塞いだ。ロンシャンはオーディオの置いてある棚に手をかけ激しくヘドバンを始めた。俺は棚が倒れないよう祈りながら自分の二段ベッドに這い上がる。
「あ、そういえば、ねぇ沢田ちゃん!」
オーディオの爆音に負けないくらい大声で、ロンシャンは叫ぶ。音量を下げればいいものを、いつもこうだ。
「沢田ちゃんも有名人なんだよ!」
「はぁ?」
「編入生!」
それだけ言うとロンシャンはまたヘドバンを再開。編入生だから有名人?小学校の転校生かよ。確かに他の生徒は多くが中学からエスカレーター式に高校に上がってくる奴らばかりだから、俺の姿を見慣れない奴もいるかもしれないけど……まさか、そういう風に悪目立ちしてるから変態に狙われる、なんてことないよな?
そう思ったら急に恐ろしくなった。これからはなるべく目立たないように波風立てないように学生生活を送ろう。そうすればもう襲われない……ことにはならないかもしれないが、発生率は少なくなるだろう。と、思いたい。
とりあえず俺は身近な人の悪目立ちを阻止することにした。枕元に常設してある(ロンシャンが真夜中にオーディオを鳴らすのを止めるためだ)リモコンを取り上げてオーディオに向け、迷わず電源ボタンを押した。爆音がピタリと停止し、ブツンと音をたててオーディオは大人しくなる。俺が有名人であるのなら、その一因はロンシャンにもあるはずなのだ。俺に言わせればロンシャンの方が有名人なのだから。“一年のやたらテンション高い奴と同室なんだろ、よく耐えられるよな”。
あっ沢田ちゃん何すんのー!と叫ぶロンシャンを尻目に、壁と向かい合って寝転ぶ。そして、山本の言っていた“万が一”について考えを巡らせてみた。
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