誰にも言わないこと。必要以上に干渉しないこと。関係が終わったら、全て忘れること。俺と彼との間で交わされた約束はそのたった三つだけだった。けれどそのたった三つの約束は、たったそれだけでありながら致命的な約束だった。そこに含まれた不文律に、恋愛の仕方も知らないガキだった俺は気づけなかった。誰にも言わないこと、干渉しないこと、全て忘れること……それはつまり、絶対本気になることはないという宣告であり、本気になってはいけないという牽制でもあったことに。
「ツナ」
優しい声音で名前を呼ばれるとすぐにでもとんでいってしまいたくなる。けれど彼は俺よりずっと大人だから、きっとそんなことされると迷惑だろうなと思って、ぐっと我慢する。
代わりに満面の笑みを作った。
「山本さん」
仕事帰りでスーツ姿の山本さんは、俺の前まで小走りに駆けてきた。
「ごめんな、待った?」
山本さんは眉尻を下げて俺の頭をふわふわ撫でる。そんなに気を使わなくてもいいのに、俺は山本さんのことだったら何時間だって待っていられるんだから。
「今来た所です」
「嘘だ、冷たくなってるだろ」
大きな手が俺の頬をするりと撫でた。仕方ないな、みたいな顔をしてちょっと笑う。それが堪らなくて、思わず抱き着きたくなったけれど、またぐっと我慢する。
外じゃ、そんなことしちゃいけない。特にこんな待ち合わせの名所でなんか、どこで誰が見ているか分からないから。
手を繋いで歩いたりしたかったけれど、そんなことしたら絶対迷惑だって分かってる。だからいつも我慢する、それくらいちゃんと分かってる。
俺は山本さんの、いわゆる愛人だ。
山本さんは俺より15も歳上の会社員で、奥さんがいる。会ったばかりの頃は左手の薬指にシンプルな指輪をしていて、それを見るたび俺は心苦しくなった。俺がしかめっ面をしていたら山本さんは黙って指輪を外してくれた。それ以来、二人でいるときは指輪を外してくれている。多分山本さんは、俺が罪悪感を覚えていると思ったんだろう。でもそれは違う。俺が感じていたのは、嫉妬だ。
最初に声をかけてきたのは山本さんの方だった。どうして俺だったのと聞いたら、面倒は嫌だったから、と苦笑した。それから、ツナが可愛かったから、とも言った。
週に一回くらい山本さんと会って、ご飯を食べたり買い物に行ったりホテルに行ったりする。男同士のセックスの仕方も山本さんに教わった。黙っていれば山本さんが優しく気持ちよくしてくれるから、俺はすぐいい気分になった。お金も貰った。最近は要らないと言っていたけれど、俺の気持ちだからと必ず毎回紙幣を押し付けられた。
男だったら、女の子と違って不倫相手に本気になることはないし、奥さんと別れて自分と一緒になってくれなんて面倒なことは言い出さないだろうと思ったんだろう。間違って子供が出来たりもしない。でも山本さんの考えは甘かった。俺は本気で山本さんに惚れてしまった。だって一緒にいるとき、山本さんは本当の恋人みたいに、愛してるみたいに接してくれる。だから俺は舞い上がって本当に愛されてるみたいに勘違いしてしまったんだ。そんなこと、あるはずないのに。
「好きなんです」
セックスの後、ベッドの縁に腰掛けて煙草をふかす山本さんの背中に訴えた。その背中はがっしりしていて程よく筋肉がついていて広くて、大人の男のそれだった。何故か泣きたくなった。
「山本さんが好きなんです」
山本さんは振り返らなかった。振り返って仕方ないな、みたいな顔をしてちょっと笑って、頭をふわふわ撫でてくれたりなんかしなかった。黙って煙草を灰皿に押し付けて、床に脱ぎ散らかした服の中から財布を拾い上げて、紙幣を取り出した。そしてベッドの宮の上に置く。
誰にも言わないこと、干渉しないこと、全て忘れること。いつか交わしたその約束が頭の中に浮かんだ。いつもより少し多い紙幣は無言の牽制だった。それ以上言うな、深入りするな、本気になるな。色んな意味が沢山詰まった紙幣。
俺の気持ちだから。
そう言われてずっと受け取っていた紙幣。ようやく分かった。あれは俺に気を使ってくれているんじゃなくて、この関係はあくまで契約だという象徴。快楽の代償。割りきった関係のための道具。
ようやく気付いた。馬鹿みたいだった。愛されてると勘違いしていたのは俺だけで、一人で勝手に舞い上がって、本気になって。山本さんが優しくしてくれるのは、ただ気分を盛り上げるための演出みたいなもの。ずっと騙されていた。俺は恋愛の駆け引きなんて何も知らないただのガキだった。
本当はもっと我儘を言ってみたい。我儘を言って困らせて、仕方ないなって山本さんに笑って頭を撫でてほしかったのに、俺は16のガキだし恋人じゃないし子供も作れない。繋ぎ止める方法なんか何一つない。
「……嘘です、困らせてみたかっただけ」
だから唯一の抵抗として、約束にかなう嘘を吐いた。
ようやく振り向いた山本さんは困り果てた顔をして、俺の頭をそっと撫でた。いつもはその手が嬉しいのに、何だか酷く悲しくて、吐きそうになった。
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