この車の助手席に男のひとを乗せるのは、これがはじめてでした。営業の社員に一人一台ずつあてがわれた白い軽自動車は、仕事以外のとき、たとえば休日でも、申請さえしていれば使用できるんです。うちの会社はふとっぱらなのかもしれません。
数年ぶりに会ったツナさんは最後に会ったときよりもっと男らしくなっていて、ハルは驚いてしまいました。昔からだいすきでしたが、今日で二度目の恋におちた気がしました。
「ハルもすっかり社会人らしくなったなぁ」
ツナさんはそう言って笑いました。
社会人。そう、ハルは日本でふつうに生活してふつうに大学を卒業してふつうに社会人になりました。
けれどツナさんは違います。ツナさんは高校を卒業すると同時に、獄寺さんや山本さんと一緒にイタリアに行ってしまいました。空港でおもわず泣いてしまったハルの頭をツナさんはやさしく撫でて、日本に帰ってきたらハルに会いにいくと言ってくれたのを覚えています。あれから五年。ツナさんはスーツの似合う大人の男性になっていました。ふつうに社会人になったハルとは大違いです。ツナさんはハルの手の届かないところに行ってしまったのです。
「京子ちゃんや黒川にも会ってきたんだけど、やっぱりすっかり社会人って感じになってたよ。でも中身は全然変わってなかった。黒川なんかバリバリのキャリアウーマンって感じで俺笑っちゃったよ。黒川らしいよな」
五年ぶりに再会したツナさんはとても饒舌で軽快で、控えめだった昔のツナさんとは違っていました。だからハルはつい、こんな風にこぼしてしまったんです。
「……ツナさんは、すごく変わりました」
もしツナさんがイタリアになんか行かなくて日本にいて、ハルみたいに大学に行って社会人になっていたら、ハルにも少しはチャンスがあったのかもしれません。いえ、距離なんかの問題じゃなくて……ハルには最初からチャンスなんかなかったんでしょうか?そんな風におもいたくはありませんでした。
「……ツナさん、山本さんとなかよくしてますか?」
「え?」
「いいから答えてください。なかよくしてますか? 喧嘩なんかしてませんか?」
「まぁ……そうだね」
とつぜんのハルの質問に、ツナさんは遠慮がちに答えてくれました。
でもそんなこと、きかなくてもわかってるんです。ツナさんが昔と違って饒舌で軽快なのは、きっといつも一緒にいるひとの性格が自然に移ったんでしょう?そんなことハルはわかってます。
「山本さんとどこまでいったんですか?」
「は?」
「いってないことはないですよね、ハルたちもう中学生じゃない、いいおとななんですから」
「おいハル、」
「ハルじゃダメなんですか? 好みのタイプじゃないですか? それじゃあ京子ちゃんは?」
「ハル、」
「……ごめんなさい、こんなことききたいわけじゃないんです」
ハルはじっと前だけみて、ツナさんの表情をうかがうことはしませんでした。ツナさんの顔を見たらきっとハルは泣いてしまいます。怒ったり、たしなめたりしてもいいはずなのに、それでもツナさんはやさしいから、黙っていてくれました。だから、言うつもりのなかったことまで言ってしまいました。
「……ハルは、ずっとツナさんが好きなんです。昔も今もずっとツナさんだけが好きなんですよ……!」
いちど口に出してしまったら、堤防が決壊したみたいに、もうとまりませんでした。ハルはひどい女です。ツナさんを困らせるとわかっていて、こんなことを言うんですから。
「どうしてなんですか、どうしてあのひとなんですか」
となりにいるツナさんはきっと困った顔をしているでしょう。ハルはおかまいなしに喋り続けました。もっともっと困らせて、ツナさんがハルにかまってくれたらいいとおもいました。ツナさんはいつもやさしいから、ちょっといじわるしてみたくなっただけです。
「ハルは普通のおんなのこなんですよ、失恋だってします。やさしくして慰めてくださいよ、かわいいって、大事だって言ってくださいよ……!」
視界が涙でにじみます。ハルはいま車を運転してるのに、涙は勝手にあふれてきてとまってくれません。必死にまばたきをしても視界はちっとも晴れてくれません。ハルはもういいおとななのに、ツナさんの胸にすがって子供みたいに泣きじゃくりたいとおもいました。泣いてだだをこねて、それでツナさんがふりむいてくれるなら、今すぐにでもそうしていることでしょう。
「……ハルには俺なんかよりもっといい男が見つかるよ」
横から伸びてきた手がハルの頭をやさしく撫でました。五年前よりも大きくて、でも同じように暖かい、やさしい手。
「ハルは俺が出来なかった分、普通に結婚して子供産んで、幸せになってよ」
やさしいところは昔と全然変わってなくて、ツナさんは本当にひどいひとだとおもいました。そんなツナさんを困らせて、結局甘えてしまうハルも、ひどい女です。ハルや京子ちゃんには男のひとを癒す柔らかい胸があるけれど、ツナさんが大事にしているのは、イタリアに連れていったのは、自分が守らなければいけないコワレモノじゃなくて、背中をあずけられる強いひと。ハルじゃツナさんの隣には並べないんです。同じ目線でものを見て、背中を預けてもらえるひろい背中がハルにもあったらよかった。山本さんがうらやましい。悲しくて、くやしくて、ハンドルをぎゅっと握りました。この車の助手席に男のひとを乗せるのは、これがさいしょでさいごです。
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