きみは同じ会社の、一つ上の先輩に恋心を抱いていた。男らしいというよりは温和で、初めて会ったときの印象は、どちらかというと頼りないひとだった。
彼はきみの教育係になった。彼は思った通り温厚で何となく頼りなくて、きみが心配になるほどだった。けれど、時折見せる頼れる一面にどきりとした。よく見せる笑顔が可愛らしかった。思いやりがあるところも好印象だった。気がついたら目で追っていて、ようやくきみは気づいた。これは恋だ。
電気が走るようなドラマチックな恋ではなかった。けれどずっと寄り添っていたいような、気がついたときに側にあってほしい、自然であたたかな恋だった。
二人で残業をしていて遅くなったとき、彼はきみを車で自宅まで送り届けてくれた。彼の車の中はお世辞にも綺麗とはいえなくて、きっと彼女はいないのだろうと思った。
「先輩って、彼女いるんですか」
思い切ってそう訊ねてみる。
「彼女なんかいないよ」
案の定、苦笑混じりにそんな言葉が返ってきた。きみは内心ほっとして、知らぬ間に浮いていた背中をシートに埋めた。
自宅の前に着いて、車を降りる。お茶でも飲んでいきませんかと誘ったけれど、明日も早いからと断られてしまった。彼は妙なところで真面目だと、きみは思っている。仕事では適度に手を抜いているように見えて、こういうことは軽率ではない。きみの目にはそう写った。悪い印象ではなかった。
彼と一番親しい女性は自分だと思っていた。きみの知る限り、会社の中では彼と親しく会話している女性はいない。頻繁に携帯を気にしている様子もない。いつも彼は同期の背の高い男と一緒にいる。彼いわく、男とは中学時代の同級生で、再開のきっかけは偶然同じ、今の会社に入社したことらしい。きみから見て男は、彼とは対照的な、大胆で豪快な人間だった。きみは男が気に入らなかった。彼を独り占めできる男が羨ましかったのかもしれない。
「先輩のことが好きなんです」
ある日、きみは告白した。退社する彼の後ろ姿に追いすがって、会社の前の道端で告白した。言ってからきみは気づいた。どうしてもっと場所や時間を選ばなかったのだろう。ただ彼の後ろ姿を見かけたら、いてもたってもいられなくなってしまったのだった。残業終わりで周りに人がいなかったことが幸いだった。
彼は困った様子だった。視線を宙に漂わせて、どう答えようか迷っている様子だった。
「付きあってほしいんです、先輩」
もう一度そう言うと、彼は少しの後、苦々しい顔をして呟いた。
「ありがとう、だけど……ごめん」
頭の中が真っ白になった。他に親しい女性がいるのか、もしくは恋慕う相手がいたのだろうか、彼が好きになる相手とはどんな相手なのか……沢山の思いがきみの胸に押し寄せて、気がついたらつい、呟いていた。
「彼女、いないんじゃないんですか」
彼はますます困った顔をした。いつもなら彼を困らせるのはきみにとって心苦しいことだ。けれど今に限っては、困らせても構わないと思った。半ば自暴自棄になっていたのかもしれない。
「彼女はいないよ……けど、付きあってる人がいる」
一瞬意味が分からなかった。彼女はいないけど付きあってるひとがいる。なぜかふと、いつも彼と一緒にいる背の高い男が思い浮かんだ。
「俺、女の子が苦手なわけじゃないし、子供も好きだから欲しいけど。でも、好きになっちゃったから」
彼の眉間には深いしわが刻まれていて、ああこの恋は彼を少なくとも苦しめているのだなと、きみは感じた。そんな苦しい恋ならしなければいい、そんな恋なんか捨てて自分と一緒になってほしいと、きみは言いかけて――叶わなかった。
「ツナ!」
きみの背後から彼を呼ぶ声がした。振り返ると少し先から、見覚えのある背の高い男が駆け寄ってくるのが見えた。漠然としていたものが確信に変わった。この男だ。
彼は男の姿を確認すると目を見開いて、踵を返して逃げるようにどこかへ走り去ってしまった。
「ツナ、おい!」
男は彼を追おうとしたけれど、諦めてきみの横で立ち止まった。
「……わり、邪魔したみてーだな」
悪びれずそう言う男に、きみは何故か無性に腹が立った。嫉妬か八つ当たりかもしれない。けれど今は感情に任せて怒鳴り散らしたかった。
「あんたのせいよ」
突然そう言われて、男は意味が分からないようだった。ぽかんとする男の顔を見たらきみはますますむかっ腹が立って、余計なことまで言ってしまった。
「沢田先輩を困らせないでよ」
彼を困らせて苦しめているのも自分の恋が叶わないのも全部この男のせいだ。理不尽な怒りだと頭ではわかっていた。けれど今は、誰かのせいにしたかった。目の奥が熱くなって、悔しくてきみは俯いた。
男は思いあぐねた様子でぼりぼりと頭を掻いて、きみに向き直った。
「お前、ツナの後輩だっけ」
その質問に、きみは俯いたまま頷く。
「……確かに、先に惚れたのは俺」
女の子が苦手なわけじゃないと彼は言った。男が彼に言い寄って、上手いように言いくるめたのだ。彼はお人好しだから断れなかったのだと思った。
男は溜め息混じりに、あー、と声をあげた。きみが顔をあげると、そこには途方に暮れる男がいた。
「俺のせいかー」
大袈裟に肩を落として男は嘆く。
「そうだよなー」
言いながら空を仰ぐ。つられてきみも空を仰いだけれど、星なんか見えなかった。
「……ごめんな」
不意に抑え気味の声が飛んできて、きみは男を振り向いた。男は眉間にしわを寄せたまま、困ったように笑っていた。自嘲するような笑みにも見えた。
「でも、愛してるんだ」
きみは何も言えなかった。悔しかった。何も言えなかった。彼は確かに、好きになってしまった、と言ったのだから。
「……じゃ、俺、ツナ探すから」
男はきみにそう言って立ち去ろうとした。きみはその腕を咄嗟に掴む。
「……わたしだって沢田先輩のこと、大好きなんだから」
辛うじて思いついたのはそんな言葉だった。ちっともかわいくない言葉だと思ったけれど、男を困らせてみたかった。それくらいは許してほしい。
「……頼むから、諦めてくれよ」
向こう見ずに見えた男は珍しく傷ついた顔をしていた。
「女には、勝てないから」
きみの腕をそっと振りほどいて、男は彼が消えた方角へと走り去った。取り残されたきみは空を仰ぐ。夜空は水彩画みたいに滲んでいて、星なんか見えなかった。
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