金属バットを抱いて、俺はショーケースの下で震えていた。現在午前二時。真っ暗な宝石店の中。静かすぎてそろそろ耳が痛い。
事の始まりは母さんの一言だった。
「ツッ君、お休みの間だけでいいから、夜にお店の見張りしてくれない?」
母さんの話では、最近この街では宝石店泥棒が頻繁に出没しているらしい。その泥棒はこの街の宝石店を片っ端から襲っているとか。母さんとしては本当は、ガタイのいい父さんに用心棒を頼みたかったことだろう。しかし父さんは宝石の仕入れのために世界中を転々としていて、ほとんど家にはいない。それで息子である俺に白羽の矢が立ったというわけだ。
しかし、明らかな人選ミスだと思う。俺は同学年の男子大学生より軽く頭一つ分くらい背が低いし、万年帰宅部でガタイもよくない。今持っている金属バットだって、中学校に入学したとき野球部に憧れて買ってもらったは良いものの、結局一度も陽の目を見ることなく倉庫に眠っていたのを引っ張り出してきたのだ。そんな俺が一人用心棒にいたところで、何の役にも立たないだろう。そもそも強盗が来たとしても店を守れる自信なんか全くない。だって相手は監視カメラや巡回中の警官の目を掻い潜って盗みを働き続けている奴なのだ(ちなみにうちの監視カメラはハリボテだ)。
何かが弾けるような物音に、俺ははっと目を覚ました。どうやらうとうとしてしまっていたみたいだ。呼吸を殺して耳を澄ますと、微かだが衣擦れの音もする。呼吸を殺したまま、震え出した手でバットをぎゅっと握り直す。そっと様子を伺うと、そいつはガスバーナーのようなものでガラスを熱して割り、中の貴金属を盗み出していた。そのとても冷静な作業が、逆に恐怖を引き起こした。怖い、怖い、怖い。膝が震えている。飛び出して行って立ち向かうのも怖いけど、隠れているのも怖い。
足音が段々大きくなってきて、俺の潜んでいるショーケースの正面で止まった。ここで、ここで俺がやらなきゃ、でも怖い、怖い、けど!もうどうでもいいや!
「うわぁぁぁぁぁっ!」
大声をあげながら、俺は勢いよく立ち上がった。暗闇に慣れた俺の目は正面に人影を捉える。その犯人とおぼしき人影に向かって思いっきりバットを振った――……が、思いがけずバットは人影によって軽々と受け止められてしまった。途端パニックになって、逃げようとしても固くバットを握った拳がほどけない。バットを引っ張られて、俺は上半身をショーケースの上に乗り出す姿勢になってしまった。人影が俺の顔のすぐ近くに。うわ、やばい、怖い、やばい。逃げようともがいたけれど今度は手首を捕まれた。うわ。万事休す?何される?殺される?反射的に俺はぎゅっと目を瞑った。
「――バットはこんなことのために使うもんじゃないぜ」
不意に頭上から降ってきた声に、俺は恐る恐る目を開けて人影を見上げる。その顔は暗くてよく見えない。相手もそう思ったのか、急にぐいと顔を近づけてきた。
「……ん?」
俺と視線を合わせ、首を傾げた窃盗犯は、思いがけず若く――変な話だけれどカッコいい――青年だった。
呆然としている俺を他所に、青年はにこやかに笑いかけてきた。
「お前、名前は?」
「へ、」
「名前、お前の」
「さ、沢田、つなよし、」
訳が分からないままに、ただ答えるしかない俺。
「沢田? あぁ、ここの店の息子?」
そう言いながら自然な動作で俺の固まった指をそっと引き剥がし、バットを取り上げる。流されるままに、ただ頷くしかない俺。
「可愛い用心棒だなー」
楽しそうな口調で歌うように言うと、先ほど盗んだ宝石やら貴金属やらを詰め込んだバッグを何やらごそごそやりだして、何かを取り出した。
「ほら、やるよ、これ」
その指先に摘ままれていたのは指輪だった。やるよ、ってこれ、うちの店のだし。そう思ったけれど突っ込みをするにはあまりに混乱し過ぎていて、俺は口をぱくぱくさせるしか出来なかった。そいつはまたごく自然な動作で俺の右手を取って、その薬指に指輪をはめた。そして何の偶然か、その指輪は緩くもきつくもなく俺の指に大人しく収まった。
「またな」
そうしてまた悪戯な笑みを向けると、俺の頭をくしゃくしゃ撫でて店から出ていってしまった。嵐のような出来事に頭が追い付いていかなかった俺は情けないことに、空のショーケースの前にぼんやりと立ち尽くしていた。
数分後、俺の叫び声を聞き付けた母さんが店の奥からバタバタと飛び出してきた。
「ツッ君、大丈夫!?」
パチンパチンと店内の照明が点く。空っぽのショーケースと立ち尽くしている俺を見ると、母さんは小さな悲鳴をあげた。
「……母さん、」
ごめん。辛うじて出た言葉はそれだった。ああ、やっぱり俺はダメだったよ(分かってたけどさ)。母さんは慌てた様子で駆け寄ってきて、怪我してないとか大丈夫とか言いながら俺の身体をパタパタ触る。そうして俺の右手に触れたとき、ぴたりと動きを止めた。
「……あら? それ」
母さんは俺の右手を取って指輪をまじまじと見つめる。
「あぁ……何か……、泥棒に貰った」
俺の言葉に、母さんは目を丸くして俺の顔を見た。そりゃそうだよな、うちの店から盗んだものを店の息子にやる、なんて、返したものと同義だもんな。変なことするよな泥棒も。
しかし母さんの考えていたことは、俺の考えていたところと少し違っていたらしい。
「……ツッ君、その人、どんな人だった?」
言いながら、何故か微笑む母さん。ちょっとそんな笑ってる場合じゃなくない?でも笑ってるのはパニクった俺を落ち着かせるための母さんの優しさで、きっと犯人のことを訊いたのは警察に話す為なんだろうな。
「えっと……短髪で、スポーツマンみたいな……かっこいい、人」
俺の解説を聞いた母さんは、何故か酷く嬉しそうな表情になった。
「あら……あらあら」
え、何?戸惑う俺を他所に母さんは微笑みを崩さずに言った。良かったわねぇ、ツッ君。そして次に続いた言葉に俺は耳を疑った。それは俺の生涯で初めて、自分の母親の常識を疑った瞬間でもあった。
「それ、エンゲージリングよ」
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山本とツナママはどっかちょっとズレてる