一瞬暗闇に浮いた思考は、目覚まし時計の音で現実に引き戻された。目覚めがやけにすっきりしていて逆に気持ち悪い。目覚まし時計を止めて、上体を起こす。
やっぱりさっきのは夢だったようだ。それはそうだ、だって夢の中じゃなきゃ、山本に会えるはずがない。
思わず、唇に手をやっていた。たとえ夢でも……ちょっとおかしくないか?でも夢だから何でもありなんだろうか。溜め息を吐きながらベッドを降りた。さっきまで見ていた夢がやけにはっきりした輪郭を持っていたせいか、ここが本当に現実なのかどうかさえ曖昧だ。
部屋を出ると、一階から物音がした。階段を降りてキッチンへ行くと、母さんが朝食の用意をしていた。いい匂いが鼻をくすぐる。母さんが俺に気づいて振り向いた。
「あらおはよう、ツッ君」
いつも通りの朝だ。
「おはようございます、沢田さん」
玄関を出ると、毎朝俺を迎えに来てくれる獄寺隼人くんがビシッと45度の礼をした。そんなことしなくていいと言っているのに、獄寺くんは昔からずっとこの調子で俺に接してくる。俺とは中学二年のとき同じクラスになってからずっと一緒にいる。中学三年のときのクラスも、高校も同じ所に進んだ。獄寺くんは頭がいいから、もっとレベルの高い高校にだって行けたはずなのに。
「おはよう獄寺くん」
俺たちはいつも通り並んで学校へ向かう。
そういえば中学二年のとき、獄寺くんも同じクラスだったんだから、山本のことは知っているはずだ。二人が話してるシーンなんか見たことないけど……覚えてるかな。
「獄寺くん、中二のとき同じクラスだった山本って覚えてる?」
獄寺くんは怪訝な表情をして答えた。
「……そんなヤツ居ましたっけ」
獄寺くんは基本的に、自分が認めた人間以外には反抗的な態度を取るし、興味がない人間には見向きもしない。山本には興味がなかったらしい。ちなみに、何故俺が彼のお眼鏡に叶ったのかは謎だ。
「どうなさったんですか、急に昔の話なんて」
獄寺くんは尋ねる。
「いや、何となく思い出してさ……」
適当にはぐらかしておいた。変な夢の話なんかする必要はないだろう。
夢に落ちて最初のシーンはやっぱり頼りない暗闇で、俺は手探りで次のシーンへの入り口を探す。恐らく今日もまた会えるだろうという予感がしていた。現実においては単なる予感でも、今はきっとその通りになる。だってここは俺の夢の中だから。
昨日と同じ扉を開けると、昨日と同じ席に座っていた山本が振り向いた。俺は後ろ手に扉を閉めて山本の側まで歩いていく。
「今日も来たのか」
山本は言った。
「多分会えるだろうな、くらいにしか思ってなかったんだけど」
昨日と同じ席に腰を落ち着けて、改めて辺りを見回した。
昨日に引き続いて、今俺たちがいるのは中学二年のときの教室で、俺たちが着ているのも中学校の制服だった。黒板上のスペースに貼られているクラス目標まで一緒だ。月曜日の一時間目が数学っていう気の滅入る時間割も全く同じ。教室の後ろにあるロッカーはいつもごちゃごちゃで汚なかったけど、今もそれが見事に再現されていた。脱ぎ散らかした体操服や教科書が無造作に突っ込まれている。
「懐かしいな」
俺と同じように教室内を眺めていた山本がぽつりと呟いた。俺は頷く。
「そういや、ツナとはあんま喋んなかったよな」
喋らなかったんじゃなくて、喋れなかったのだ。
「……ホントは俺、山本ともっと仲良くなりたかった」
山本の周りには常に人が沢山集まっていて、そこは俺なんかが介入することはできない世界だと思っていた。同じ空間にいるのに違った次元で生きているような気がしていた。そんな相手に自分から声をかけるのは憚られたのだ。
だから俺は楽しみだった。昇降口で山本が「おはよう」と声をかけてくれるその瞬間が――、
瞬きをした瞬間、目の前の景色が変わった。さっきまで山本と教室にいたはずの俺の目の前にあるのは何故か下駄箱だった。一瞬、夢から覚めたのかと思った。けど違う。目の前にあるのは中二のときの、俺の下駄箱だ。辺りを見回すと、そこは中学校の昇降口だった。外はまだ陽が高く、空の色は青かった。
……山本は?
もう一度辺りを見回してみたけれど、誰もいない。
誰もいない。
ぞわっと背筋から恐怖が這い上がっていた。一人。誰もいない。怖い。風景が切り替わったのは俺の回想のせいだろうか。俺の思い通りって言いながら、上手く操れていないみたいだ。このまま一人で夢の中に置いてきぼりにされたら?……膝が震えた。
ざり、と砂利を踏む音がして振り向いた。するとそこには山本が立っていた。上履きじゃなく普通のスニーカーを履いて、まるで今登校してきました、みたいなシチュエーションだった。
「ちょっとびっくりしたなー」
山本はあまり気にしていない様子でそう言って、近づいてきた。そして目の前までくると、こう言った。
「おはよ、ツナ」
……俺が大切に大切に胸の中に仕舞っておいたものが、目の前で再現されていた。
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