朝起きて、自分がどうして泣いてるのか分からなかった。悔しかったような、悲しかったような気がする。少なくとも嬉し涙ではない。淡い蟠りは確かに胸に残っているのに、その理由がどうしても思い出せない。夢なんて、いつもそうだ。感情だけ置き去りにするくせに内容までは思い出せない。でも今日の夢はどうしても、忘れてはいけないような気がしたのだ。
いつも通りに登校の準備をしようとして、ふと机の上の紙切れに気がついた。俺の筆跡で何か書かれている。“絶対”とまで付け足されている。何が絶対で、この時の俺は何を焦ってこれを書いたのか全く思い出せない。でも、この殴り書きのような筆跡から何か必死さを感じた。この紙に書かれている場所は、きっと大事な場所なのだろう。何となくそう思って、俺はその紙切れをポケットに突っ込んだ。
俺が気紛れを起こさなければ、彼の思惑は成功だったと言える。けれど放課後、俺は単なる気紛れで、その場所へ足を運んでしまった。そしてそこで、記憶の蓋が外れるように、すべてを思い出したのだ。
※
白い扉を横に引くと、オレンジ色の光が辺りに満ちた。思わず目を細める。開け放たれた窓から入り込む風がカーテンを揺らす様は、夢に出てきたあの教室の光景によく似ていた。
俺の待ち人は机に座って頬杖をついてはいなかった。今日はベッドの上に横たわり、静かに眠っていた。今日は……じゃない。彼はずっとここにいたのだ。彼は――山本は、一年も前からずっとここにいた。
学校の記録を調べて分かった。山本は中学三年の初夏、事故に巻き込まれて意識不明の重体に陥った。いつ目が覚めるかも分からない、下手したら一生このままかもしれない……それを聞かされた山本の両親は、中学校の記録から山本の記録を消して欲しいと訴えた。記録に残ると見る度に思い出してしまって辛いから……それが両親の言い分だった。卒業アルバムに山本の写真が一枚もなかったのはそのせいだ。俺が辿り着いた記録は、当時の山本の担任がつけていた日誌だった。唯一抹消し忘れたそれは、机の引き出しの奥にずっと眠っていたのだった。
そして山本も、周りに気を使わせないように、皆が自分のことを忘れるように願ったのだろう。そして俺たちの記憶の中から、自分に関する情報を消した。聞くと、山本が入院してから、お見舞いに来た人は両親以外にいないらしい。
でも山本は、心のどこかで寂しがっていたんじゃないかと思う。だってあんなに友達に囲まれていた山本だ、急に一人になったら寂しいだろう。山本の孤独が無意識のうちに、山本のことを覚えていた俺を呼び寄せたんだ。皆の記憶から自分の記憶を消した山本だけど、山本の知らないところで山本を想っていた俺の記憶までは消せなかったみたいだ。
山本がどんな魔法を使って皆の記憶を消したのかは分からない。だいたいキスで目が覚めるなんてお伽噺みたいだ。それも山本が思い付いたんだろうか。意外と少女趣味だったりするんだろうか?昔はそんなことも知らなかった。
ベッドに横たわる山本の表情は穏やかで、とても綺麗だった。まるでその病室の中だけ時間が止まっているようだ。夢の中じゃ逆だったのに、今は俺が王子で山本がお姫様なんて、何だか変な気分だった。
俺がここで山本にキスをしたら、童話みたいに山本は目を覚ますのだろうか。夢の中で山本がしてくれたみたいに、俺はキスで山本を起こせるだろうか。俺は山本に会いたかったけど、山本はそうじゃないかもしれない。でも、そうだったら俺がこの病院に辿り着く前に目覚めて、俺から逃げて欲しかった。こうして眠り続ける山本を目の前にしてしまえば……俺は彼が目覚めるまで、意地でも会いに来るだろうから。そして目覚めた後もきっと、山本に会いに行くだろう。クラスメートだった時から抱いていて、夢で再会したときも言いそびれた言葉を、ちゃんと伝えたいから。
俺は少しかがんで、眠る山本の唇にそっと口付けた。山本とは夢の中で何度かキスを交わしたけれど、それよりもっと輪郭のはっきりしたキスで、少し恥ずかしかった。そっと唇を離しても、山本はまだ眠り続けている。それをいいことに、俺はもう一度キスをした。目覚めるまで、何度だって会いに来るから。
現実世界で待つ俺のために、山本が夢から覚めてくれることを願いながら、俺は病室を後にした。
了
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