ツナは泣きつかれて眠ってしまい、その寝顔を見ていた俺もいつの間にか眠りに落ちていた。ツナが身動ぎしたので釣られて目を覚ます。ゆっくり目を開けると、上体を起こしたツナが無表情で俺を凝視していた。そして開口一番、絶望を口にした。
「誰?」
俺は驚いた、一瞬悪い冗談かと思ったけれどツナの表情が何より真実を語っていた。無感情。無関心。
「誰」
次第に混乱の色が濃くなってくる。ここどこ、今日はいつ、君は誰、俺何してた?ツナはネジが取れたみたいにぼろぼろと疑問符を溢した。分かんない、分かんないんだ、分かんない。頭を抱えて唸る。明らかに錯乱していた。
俺は飛び起きて、ツナを宥めようと肩を掴んだ。するとツナは弾かれたように顔を上げて、触るなと悲鳴を上げた。リボーンどこ、何でいないの、助けて、どこにいるの。ツナの口から溢れ出た知らない奴の名前。
俺は錯乱したツナを前にどうすることも出来ず、茫然としていた。けれど思考だけは嫌味に冴えていて、俺の気持ちとは関係ないところで、閃光が走ったように点と点を繋げた。
……魔法が解けた。
ツナは頭を抱えたままガチガチ震えている。悪いとは思ったけれど、今は緊急事態だ。俺はツナの鞄の中を勝手に漁った。中身は至ってシンプルだった。財布とボロボロになった小さなノートと携帯電話。着信ありを知らせる文字が光っている。折り畳み式のそれを開くと、俺の目に飛び込んできたのは恐ろしい件数の着信だった。ボタンを操作してみると、昨日深夜から今朝にかけて、全部同じ相手からの着信だった。その相手というのが、リボーン。心臓を串刺しにされたような衝撃が身体を襲った。俺は何かとんでもない魔法を解いてしまったんじゃないかと今更思って、指が震えた。震える指で発信ボタンを押し、携帯を耳に当てる。ワンコールで相手が出た。
「……ツナか?」
予想していたより優しい声色だった。緊張で口の中が貼り付いてなかなか言葉が出てこない。
「……あの、」
やっとのことで声を絞り出すと、受話器越しにでも空気が変わるのが分かった。
「どこに居る」
敵意剥き出しの声。俺が自分の家の住所を告げると、相手は三分で着くと吐き捨てて一方的に電話を切った。
……一体。
俺の知らないツナがそこには居た。笑顔を見せてくれるあの優しいツナじゃない、身体を丸めてベッドの上で震えている別人みたいなツナ。知らない男に死ぬほど心配されているツナ。……俺のことを、覚えていないツナ。ふと鞄から頭を出していた小さなノートが気になった。見てはいけない秘密を覗いてしまうような後ろめたさもあったけれど、その誘惑に耐えきれず俺は一枚ページを捲った。
そして、後悔した。
ノートはどのページも細かい文字でびっしり埋まっていた。一番上には日付。その下には時系列に沿って、誰とどこに行って何をしてどんな会話をしたかまで詳細に書かれていた。ペラペラとページを捲っていくと、約二ヶ月前、俺がツナに告白した日の記述もあった。赤いペンでこう書いてある。
――山本に「好きだ」と言われる。嬉しかった。山本は優しくていい奴。――
しかしその隣のページ、一番上に書きなぐったような記述があった。
――朝になったら全部忘れてた。顔も声も思い出せない。忘れたくなかったのに。――
そこまで目を通したところで、けたたましく呼び鈴が鳴った。ツナがびくりと肩を震わせる。慌てて玄関まで走った。ドアを開けるなり、背の高い黒いスーツを着た男が押し入ってきた。
「ツナ!」
大声で呼びながら奥の部屋へずんずん進む。俺も慌てて後を追った。男が部屋のドアを開ける。
「リボーンっ!」
気付いたツナは途端に泣き出して、近付いてきた男にしがみついた。男は宥めるようにツナの背中に腕を回して背中を擦る。俺は部屋に一歩踏み入れたまま動けないでいた。同じ空間にいる筈なのに、俺だけ決して交わらない別な世界に生きているような、独り置き去りにされたような感じがした。
リボーンと呼ばれた男は酷く冷たい、突き刺すような視線を俺に向けてきた。
「……とんでもねーことしてくれたな」
俺は何も言えなかった。俺が悪い。俺があのとき引き留めたから、ツナはこんな風に。
「一体……、どういう」
俺は訊ねた。この男は全ての事情を知っている。俺の知らないツナのことを、ツナの全てを。リボーンは深く溜め息を吐いて、ゆっくり口を開いた。
「こいつの記憶は、十二時間しか持たねぇんだ」
慈しむような優しい手付きでツナの背中を擦る。ツナはすっかり大人しくなって身を預けていた。
「十二時間を越えると、全部頭ん中からすっぽり抜けちまう」
再度ギロリと俺を睨む。
「毎朝毎朝起きるとこいつはお前のことを忘れている。それでもお前はこいつに好きだなんて軽々しく言えんのか?」
リボーンはツナを連れて帰っていった。泣きじゃくったせいかツナは酷く疲弊していて可哀想な位だった。リボーンは帰り際、俺を振り返って言った。もうこいつには近寄るな。
次の日ツナは学校に来なかった。次の次の日には来ていたのだけれど、俺の席までやって来たツナは本当に申し訳なさそうな顔をして、一昨日のこと覚えてないんだ、ごめんね、と頭を下げた。ツナを傷付けてしまった。俺は死んでしまおうかという位後悔した。心臓がぎりぎり締め付けられて千切れてしまいそうな感じがした。俺の方こそ、と謝ると、山本は謝る必要ないんだよ、と、また失敗した笑顔を見せた。
これは後から聞いた話だ。ツナは二年ほど前、大きな事故に巻き込まれて重傷を負った。記憶障害はそのときの後遺症なのだという。うなじの傷痕を思い出した。事故に遭った日以降の記憶は最長で十二時間しか持たない。十二時間を過ぎると次第にボロボロと崩れ始め、一時間ほどで記憶はまっさらな状態に戻る。ツナは毎朝毎朝、事故に遭った日までの記憶の上に、それ以降に体験した事実を積み上げてから、外に出なければいけない。そうしなければ、あんなに自然に学校生活は送れない。それはさながらコンクリートの上に作られた、十二時間で重力に負けてしまう頼りない砂山で、その途方もない作業をツナが二年間、毎日毎日続けてきたのだと思うと切なくなる。ツナは自分自身に魔法をかけていたのだ。忘れたくなかったのに。ツナのノートに記してあった言葉を思い出す。ツナが一人でどれだけの希望を積み重ね、崩れていく記憶の前に絶望したか。その深さを知ったとき、俺はツナに会いたいと思った。会って抱きしめてやりたいと思った。だって一度魔法が解けてしまったら、俺はツナにとって知らない人になる。昨日一昨日の日記に出てくる自分の知らない男だ。一度忘れてしまったものは二度と思い出すことはない。積み上げた事実は記憶に劣る。「日記に基づくと多分友人であろう知らない男」として俺はツナの前に姿を現すことになる。しかしそれが本当ならば、
何故ツナは、そんな俺の告白を素直に受け止めてくれたのだろうか?
その答えはツナが教えてくれた。
日記にさ、山本のことが沢山書いてあるんだ。山本は優しくてかっこよくてすごくいい奴だって。それを読むと、山本のことがものすごく好きだったんだって分かるんだ。普通だと、この日記を書いた覚えもないから、知らない人の日記を読んでるような感覚なんだけどさ、読んでるうちに、あ、俺もこの人に会ってみたい、この人が好きかも、って思っちゃうんだよね。毎日毎日新しい恋をする感じ。変でしょ。
そう言って恥ずかしそうに笑った。
「俺、ツナの代わりに覚えといたんだ」
一昨日のこと。ツナはきょとんとして俺を見る。
「魔法が解けても解けなくても、俺はツナが好き、保証する」
言い終えると、ツナは初めて告白したあの時のように、顔を赤くしたり青くしたりしてオロオロした。それが全くあの時と同じだったのでつい吹き出してしまった。ツナも恥ずかしそうに笑った。
耐えられるのか。リボーンは俺に問うた。こいつの中で知らない人という認識になる自分の存在に耐えられるのか。またあの時のように、酷く無感情な瞳で、あなた誰、と言われるかもしれない。でもそれ位のこと、ツナが毎日曝されている絶望に比べたら全然大したことないじゃないか。
しかし、ツナの負担を考えると、一筋縄ではいかないようだった。積み上げなければならない事実はこの二年で膨大な量になっていて、もうパンク寸前だという。それに、あの朝のような錯乱状態に何度も陥るのは、ツナにとって相当の負担になる。それでもお前は一緒にいたいと思うか、こいつの負担になると知っていても。
俺は答えられなかった。
結局、ツナは学校を辞めた。ツナの意思らしかった。友達は皆どうしたのかと一様に首をかしげた。ツナの魔法を知っているのは俺だけ。ツナは今、田舎の静かな療養所にいるらしい。そうか、もう毎日魔法をかけたりとか、魔法が解ける心配とか、少しはしなくて済むようになったのかな、と思って胸を撫で下ろした。けれど俺の席からよく見える、窓際の三列目の机は主人をなくして、そこだけぽっかり穴が開いたような印象を漂わせていた。ツナの笑顔を思い出す。思い出せるって幸せだな、ツナの中の俺は多分もう知らない人なのだ。
「毎日毎日新しい恋をする感じ」。なぁツナ、俺はそんなにいい奴じゃないよ、だってお前を傷付けちまったんだから、一緒にいても傷付けちまうだけなんだから、ツナのためって言いながら、俺に恋してるって言ってくれたお前をみすみす逃がしたんだから。
ツナに会いたいと思った、会って抱きしめてやりたいと思った。毎日俺に恋してくれていたツナが酷く愛おしいのに、俺は情けないほどに無力だった。
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このような記憶障害が実際に存在するのかどうか分かりません(ごめんなさい)
フィクションということで大目に見て頂ければと思います