放課後、忘れ物を取りに教室へ引き返すと、窓際の席に山本がいた。うわ、と思って立ち止まる。誰もいない教室で一人、山本は頬杖をついて窓の外をぼんやり眺めていた。横顔の無表情が西日に照らされてはっきりと分かる。その視線の先にあるものが何であるかは、教室からでも聞こえる元気のいい掛け声や笛の音で簡単に予想がついた。ああしまった、何故今日に限って宿題を学校に忘れてしまったのか、何故引き返そうと思ってしまったのか、そして何故今日に限って山本がここにいるのか。後悔が後から後からやってきて止まらない。教室に一歩踏み入ろうとした体勢のまま、俺は動けなかった。
原因は山本の、肩から吊った片腕だ。
ふと山本がこちらを向いた。俺の姿を捉えた山本の目が驚いたように見開かれる。それでも俺は動けなかった。口の中の唾液が一気に引いていくのが分かる。異常に緊張していた。
先に動いたのは山本だった。ふっと笑うと、いつもの明るい調子で声を掛けてきた。
「どうしたんだ? こんな時間に」
「あ……えっと」
俺は狼狽えた。とにかく自分の机の中から宿題のプリントを引っ張り出してさっさと帰りたい。願わくば会話さえしたくなかったと、彼の気さくさを呪う。
更に厄介なことに気がついた。彼が今座っているのは俺の席だ。確かに山本の席は教室の真ん中の列だから、適当に選んで座った窓際の席がたまたま俺の席だったのかもしれない。それでもそんな偶然、今日でなくても良かったじゃないか。
「……宿題のプリント、忘れちゃってさ」
あぁ、と山本が相槌を打った。
「ここツナの席だっけ」
俺は黙って頷いた。早くそこをどいてくれよ、と内心そう抗議した。しかし山本は席を立つわけでもなく、教室の前に突っ立っている俺をじっと見つめている。その表情は固い。突き刺さるような鋭い視線が怖い。
「プリント、取りに来ねぇの?」
からかうような明るい声色。でも目は笑っていない。山本はわざと俺の席から動こうとしていないんだ。その口ぶりから分かる。ああ、こんなことになるんならプリントを取りに来たなんて言わなければよかった。何でもないと言ってすぐ引き返せばよかったんだ。
俺はゆっくりと、山本の座る席まで歩いていった。山本は窓を背にして、椅子に横向きに座っている。教室の自分の席までが長い長い距離のように感じられたのは、俺の一挙一動を山本がその鋭い視線で観察していたから。俺はその山本に向かい合うようにして立った。山本は相変わらず何も言わないまま、目の前に立つ俺を見上げている。
「……どうぞ?」
机から身体を離して余裕の表情。どうやら椅子から立ち上がるつもりはないらしい。俺は渋々、山本と机の間に上半身を割り込ませた。手探りで机の中を探す。置きっぱなしの教科書やノートの感触ばかりが指先に当たって、プリントらしきものは見当たらない。
とにかく俺はさっさとこの場から立ち去りたかった、いや、逃げ出したかった。だから諦めて身体を起こし、席から離れようとした……のだけれど。
「見つかった?」
山本が口元だけで意地悪に笑いながら声を掛けてきた。山本は――わざとやっている。全部。しかも性質の悪いことにわざとらしく、多分、俺を困らせるために。
「……なかった」
俺の言葉に山本はふっと笑う。そして自由の利く方の手で自らのポケットを探った。そして筒状に丸められたそれを広げ、俺の目の前に掲げる。
あ、と、俺は一瞬言葉を失った。
「……俺のプリント!」
慌てて取り返そうとしたけれど、あっさり山本にかわされてしまう。しかも山本はプリントを取り上げただけでなく、開いていた背後の窓からベランダにひらりと落としてしまった。
――何なんだよ。俺はいい加減に腹が立った。ここにきてイジメでもするつもりなのか。だったらそれはそれで構わない。どうせ俺はダメツナなんだ。山本の腕も俺のせいだ。喉の奥がひきつるのを感じた。鼻の奥もつんとしてきて涙が出そうだ。
ベランダに繋がる扉まで行くため身を翻そうとした。プリントを拾ってさっさと帰るんだ。どんな言葉を投げ付けられたって知らないふりをするんだ、俺は何も聞いちゃいないんだ――。
しかし、それは叶わなかった。山本が俺の手首を掴んで引き留めたから。何だよ何がしたいんだよ。恨んでるなら恨んでるってハッキリ言ってもらった方がどんなにか楽だろう。山本は黙ったままだ。その視線は相変わらず俺に刺さる。目を合わせなくたって肌で分かる。
顔を上げられなかった。
「……そういや、ツナと二人っきりになったの、これが初めてだな」
突然山本がそんなことを言い出した。この状況とは全然関係ない、脈絡のない話のように思える。確かにそうかもしれない、というか山本が自殺を図ったあの日まで、俺たちは全く親しくなんてなかったのだから。しかもあの日以降、俺は何となく気まずくて山本を避けていたのだ。それが今日で三日目だった。
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