割に合わない。運転席で頭を抱えた。バックミラーにちらりと視線を走らせる。後部座席に芋虫みたいに転がるその姿に、複雑な気分になった。これから一体どうすればいい?分からなかった。



不釣合いな犯罪



 事の発端は今から一週間と一日前に遡る。夕暮れ時、スーパーの屋上駐車場。金網の向こう側をぼんやり見つめながら、獄寺隼人は悩んでいた。
 弱冠二十四歳にして会社のプロジェクトリーダーに任命された獄寺だが、そのプロジェクトが上手くいかず、会社に多大な損失を出してしまったのだ。だいたい獄寺は他人に愛想を振り撒くことを大の苦手とする。地道に書類と向き合っていた方が落ち着くのだ。そんな自分がリーダーなんて、上手くいくわけがない。会社に負わせた損害は何とかして賠償しなければならない。しかし彼にそんな金はない。獄寺は胸ポケットから煙草を取り出そうとしたが、生憎切らしていたのを思い出して舌打ちをした。

「いいこと教えてやろうか」

 突然背後から声をかけられて、獄寺は振り向いた。そこには黒のスーツに黒の帽子を目深に被った青年が立っていた。夕焼け色のネクタイがやけに目立つ。

「金に困ってるんだろう」

 青年の不躾な発言に、獄寺は顔を歪めた。いきなり失礼な奴。獄寺の苛立ちは青年の登場でさらに膨らんでいく。

「金に困ってるんだろう」

 青年はもう一度言った――……確かにそうだが、何でそんなこと分かるんだ。獄寺は不信感を露にした。苛々する。青年の失礼で不躾で高圧的な態度にも、やけに整った口許にも。煙草が吸いたい。

「いいこと教えてやる」

 青年はニヤリと笑って、帽子のつばを上げた。切れ長の目と視線がかち合う。その自信満々の様子に騙されて、うっかり話を聞いてみようかと気持ちが揺らいでしまったのが悪かった。

 一番の決め手は、青年が自分の吸っているのと同じ銘柄の煙草を一本、こちらに差し出してきたことだったのだが。



 そして一週間と一日後、青年の言う通りに実行した結果がこれだった。
 両手両足を縛られて口にはガムテープを貼られ、後部座席に転がされている少年。名を沢田綱吉と言う。彼はつい先程、下校途中に人通りのない道に差し掛かった所を誘拐された。後ろから彼を追い越してきた車は突然、彼の前で停車した。運転席から降りてきた男は、恐怖と驚愕で凍りつく彼に大股で近寄り、悲鳴を上げる間もなく口を塞ぎガムテープでぐるんぐるんに縛り付け、後部座席に押し込んだ。ここで出てきた男というのは勿論、獄寺のことである。

 つまり。
 今日、獄寺隼人は沢田綱吉を誘拐した。





 この一週間、獄寺が何もせずに過ごしたわけではない。
 獄寺は八日前、夕焼け色のネクタイを締めた青年に、四つ織りにされた数枚の紙を手渡されていた。開くと、ターゲットである沢田綱吉のプロフィールと一週間分の予定が事細かに記されてあった。獄寺はその七日間、沢田が本当に記されてある通りに行動するのかを確かめていたのである。しかし予定と言っても一週間のうち、平日の四日間は、朝の八時に家を出て、夕方の四時に学校が終わり、四時半に帰宅するだけ。毎週火曜日は四時半から五時半まで塾。土日はほとんど家から出てこない……何とも味気のない一週間である。恐らくあの青年が自らの足で調べあげたのだろう。調べ"あげた"とまで言えるかどうかは疑問だが。





「こいつを誘拐しろ」

 獄寺は思わず、くわえていた煙草を落としそうになる。
 屋上駐車場の隅、獄寺の車の陰に隠れるようにして立った青年は、獄寺の目の前に一枚の写真を突き出して言った。
「沢田綱吉、並盛中学二年の十四歳だ」
 写真の中では、生まれつきだろうか茶髪の少年が、はにかんだ笑顔を浮かべていた。
「ボンゴレ財閥の一人息子だぞ。こいつを誘拐して身代金を請求すればいい」
 青年はさも簡単そうに言う。
「オイ……いいことって、犯罪じゃねぇか」
「そうだぞ」
 青年は平気な顔をして言う。
「そうだ、じゃねぇ! ふざけんな!」
 獄寺は怒鳴った。初対面の相手に犯罪を持ちかけるなんてどうかしている。くわえていた煙草をアスファルトに落とし、怒りまかせに足で踏みつけた。
「いいじゃねーか、どうせお前暇なんだろう、明日から」
 その言葉に、獄寺は目を見開いた。

 どうして知っている?

 意味深な笑みを浮かべた青年は懐から紙を取り出して、獄寺の車のワイパーに挟む。
「……やるもやらないもお前の自由だ」
 帽子を目深に被り直した青年はそう言い残し、駐車場の奥へと姿を消した。





 青年の言う通りだったのだ。一週間と一日前のあの日、会社に行くと「明日から無期限の謹慎、復帰の時期は追って連絡する」と言われた。ほぼクビである。
 しかし、何故知っているのだ。会社の人間か、それにしては見たことのない面だ。自信満々の表情を思い出すと少しだけ腹が立った。煙草を取り出して火をつける。

 さて、どうするか。

 誘拐してみたはいいものの、これから一体どうしたものか。獄寺は適当に車を走らせながら考えていた。人質とコミュニケーションを取ってみるか、いやそれは必要なのか?……犯罪なんて(当然だが)初めての経験だ、右も左も分からない。それにガキの扱い方も知らない。バックミラーを一瞥する。沢田は相変わらず大人しく転がされていた。

 とりあえず、身代金目的の誘拐というのだから、沢田の家に身代金を要求する電話なり何なりをしなければならないだろう。何となく携帯電話に手を伸ばした。このままいきなり電話をかけるわけではないが……いやこの場合、まずすべきことは何だ?学校での勉強や仕事を効率よくこなすという点には自信のある獄寺だが、発想力や悪知恵といった点には全く自信がなかった。

 突然手のひらの携帯が震え出して、獄寺は慌てた。タイミング悪く信号が赤に変わり、停車を余儀なくされる。携帯を開くと、そこには発信者の名前でなく番号が表示されていた。普通アドレス帳に登録してある相手ならば名前が出る。知らない相手からの電話か……いや、そうではない。表示されている番号は見慣れたものだった。獄寺があえてアドレス帳に登録をしない、しかし相手はこちらにお構い無く連絡をしてくる……その相手に、獄寺は一人だけ心当たりがあった。そしてこの電話の相手がその人だと気付いた瞬間、猛烈に腹が立った。どうしてこのタイミングで電話をかけてくるんだ。まだ震え続ける携帯と、まだ赤から変わる気配のない信号を見比べて、腹を括った。くわえていた煙草を片手に持ち、もう片方の手でボタンを押して携帯を耳に当てる。
「……もしもし」
 声を押し殺して電話に出ると、電波の向こう側からはこちらの空気にそぐわない陽気な声が飛んできた。

「あ〜もしもし獄寺? 俺オレ、山本だけど!」

 獄寺は持っていた煙草を、乱暴に灰皿に押し込んだ。





 他人とのコミュニケーションを苦手とする獄寺だが、その中でも特に他人との距離感が取れない人間とのコミュニケーションが苦手だった。できれば関わりたくないのだが、何分相手はこちらとの距離感が分からないため、こちらの意思とは無関係に接してくる。
 山本武はその典型だった。中学時代の同級生で、端から言わせれば腐れ縁のようなもの。二人の関係は山本に言わせれば仲のいい友達で、獄寺に言わせればただの迷惑な知人だった。もちろん山本の側には何の悪意も他意もなく、ただ純粋な好意でもって他人と接しているだけなのだが、獄寺にとってはそれが自分のテリトリーに土足で踏み込まれているような気がして不愉快だった。

「獄寺さぁ〜今何してんの?」

 山本は相変わらずの軽い調子で話してくる。彼のいつもヘラヘラしている所も、獄寺にとっては気に入らないポイントだ。

「今仕事中で忙しいんだよ、切るぞ」
 獄寺は声を押し殺して短く言う。しかし山本はカラカラと笑った。
「ウッソだろ〜、暇なんだろ?」
「暇じゃねぇよ、マジで切るぞ」
「ちょ、待てって! 俺知ってんだからな、獄寺が暇だって!」
 その言葉に獄寺は硬直した。どうして。
「……何で知ってんだよ」
 電波の向こう側で山本は軽快に笑う。
「あ〜あのな、今いるんだわ」
 いる?どういうことだ?まさか山本は何かを知っているのか?まさか、この誘拐を?
「……どういう意味だよ」

「だから〜、今いるんだって、お前の車が見える位置に」

 心臓が跳ねた。慌てて窓の外に視線を走らせる。今車が止まっているのは二車線の道路の、歩道に面している側だ。その歩道の数メートル先に見慣れた長身を捉え、獄寺は戦慄した。
「今からそっち行くから」
 言い返す間もなく電話は切れた。フロントガラスの向こう、こちらに真っ直ぐ向かってくる長身。まだ変わらない赤信号。来るな。来るな来るなくるなくるなくるな!
 男はガードレールを軽々と乗り越えて、遂に助手席のドアに手をかけた。

 しまった、と思ったが遅かった。

「おーす獄寺、やっぱ暇じゃん」

 身を屈めて車の中を覗き込んだ山本は、いつもと何ら変わらない締まりのない笑顔だった。





「丁度よかった、俺今日休みでブラブラしてたんだけどさー、偶然獄寺の車見っけたから電話したのな、まぁ電話に出なくても勝手に車乗るつもりだったけど」
 山本は一人で喋りながら勝手に助手席に乗り込み、勝手にドアを閉めて勝手にシートベルトまで閉めた。

「オイ、勝手に乗ってんじゃねーよ」
「暇なんだろ? 家まで乗せてってくれよ」

 山本は笑う。勝手な奴だ。獄寺は苛立つ。しかし今の話ぶりでは、通りかかったのは単なる偶然であるらしい。獄寺は小さく息を吐いた。
 だが、まだ油断はできない。後部座席を見られたらおしまいだ。後部座席のガラスにはスモークが貼ってあるので、外から中の様子は見えにくい。まだ気付いていないのか、いないのだったらこのままどうにかやり過ごしたい……と、思っていたのだが。

 後部座席からドンと鈍い音がした。それが、後部座席に積まれた人質がドアを蹴った音だと気付くまで数秒。マズい、と思ったときには遅かった。左に顔を向けると、山本は後部座席を振り返り、目を見開いたまま硬直していた。

 ……マズいことになった。
 後部座席には縛られて身動きの取れない中学生。何が起きているのかは一目瞭然である。見られた。見られてしまった。獄寺の心は自らの犯罪が露見したショックと、学生時代に山本と出会ったこと自体への後悔でいっぱいだった。どうする。何にせよ、もう後には退けない。自分は既に犯罪を犯しているのだ。
 一度手を汚したのなら、二度だって同じだろう。

 しかし山本は臆することなく、真剣な表情でこう言った。

「獄寺……これは、お前の趣味か?」





 道理でモテるくせに女の影がないと思ったぜ、と宣う山本を黙らせて、獄寺は新しい煙草に火をつけた。落ち着け、考えろ――……山本はまだ事の重大さに気付いていない。このまま誤魔化せるか、それとも力ずくで黙らせるか?
 しかし獄寺は第三の道を思い付いた。旅は道連れというやつだ。どうせこいつは勝手に首を突っ込んできたようなモンだし、友達でもない(少なくとも獄寺はただの迷惑な知人だと思っている)し、構わないだろう。
 吸い込んだ煙を一気に吐き出して、獄寺は言った。

「誘拐した」

 山本は黙っている。ちらりと横目で様子を窺うと、山本が変な顔をしてこちらを凝視していた。
「獄寺……」
 山本はゆっくりと言葉を溜めてから口を開いた。

「お前、そんなにショタコン末期だったのか?」

 獄寺は持っていた煙草を助手席に向けて投げる。うわ危ね、と慌てた声がした。ざまぁみろ。
「そういうんじゃねぇ、身代金目的の誘拐ってやつだ」
 山本は興味なさげにふぅんと鼻で返事をして、拾い上げた煙草を備え付けの灰皿に捨てながら事もなげに言った。

「でもさぁ、身代金目的の誘拐ってほとんどの犯人が捕まってんだぜ。知ってっか?」

 獄寺は思わず助手席を振り返ってしまった。
「ちゃんと前見て運転しろって」
 山本が前を向いたまま指摘する。獄寺は渋々ながら前を向きハンドルを握り直した。手のひらに変な汗が滲んでいることに気が付いた。

「お前さ、ドラマとか観る?」
 唐突に、山本は質問した。
「いや、見ねぇ」
「じゃ漫画は?」
「読まねぇ」
「小説は」
「何なんだよさっきから!」
 獄寺は怒鳴った。苛々する。こいつと居るとろくなことがない。

「だってさ、これじゃお前捕まるぜ? ドラマとか漫画とかで誘拐の話とか観たことねぇの? やり方が杜撰すぎ」

 はっきりとダメ出しをされて獄寺はカチンと来た。しかし山本の言うことは尤もだ。拐ってみたはいいものの、この先どうしたものか途方に暮れていたのは事実である。
 山本はシートベルトを外し、運転席と助手席の間から後部座席へ身を乗り出した。
「何やってんだよ危ねーだろうが!」
 山本は長身を曲げて、そのまま何とか後部座席まで移動した。沢田は恐怖で身体を縮める。
 しかし山本は沢田には手を出さず、後部座席の空いているスペースに腰を下ろした。そして足元に転がっていた学生カバンを手にして、中から携帯を取り出す。

「あーホラ携帯も電源切ってねーし……でも最近の携帯って電源切ると親に勝手に連絡行くんだっけ?」

 そこで山本は改めて沢田を見た。沢田はふるふると小刻みに首を横に振る。それを確認して、山本は持っていた携帯を電源を切って助手席に放り投げた。

「とりあえず数時間は命拾いしたな」
「数時間?」

 獄寺の疑問に山本はあっけらかんと言う。

「だって思いっきり顔見られてるし、車も自分のだし、俺さっきからお前の名前何回も言ってるし」

 ――……確かにそうだ。身代金目的の誘拐にしては行き当たりばったりすぎた。
 と、獄寺がバックミラーごしに後ろの様子を窺うと、ちょうど山本が沢田を抱き起こして口に貼ったガムテープを剥がそうとしている所だった。

「オイ何勝手な真似してやがんだ」
「どーせ俺ら捕まるんだし、良くね?」
 言いながらゆっくりガムテープを剥がしていく。
「捕まりたくなかったら金は諦めて、このまま口封じに殺すしかねーしな」

 その口調があまりにも普段通りだったので、獄寺はぞっとした。ハンドルを握り直す。ぬるっとする。

 漸くガムテープが剥がされる。
 それは獄寺が初めて聞いた沢田の声だった。

「……死んでもいい、です」



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