次の日、目が覚めたら隣にツナはいなかった。庭に出てみるとツナが俺の小屋の前にぼんやり立っていた。
「ツナ」
名前を呼んで駆け寄る。ツナは俺の小屋を見下ろしたまま動かない。
「今日、何の日か知ってる?」
俺が黙っていると、ツナは小屋に向かって微笑んだ。
「今日、武の誕生日なんだ」
……犬は人間みたいに日付を気にして生きる生物じゃないから自分じゃ全く気付かなかったけれど、言われてみれば確かに、毎年の春はツナがおめでとうって言って頭を撫でてくれて、母さんがご馳走を作ってくれて、父さんがいつもより長い時間散歩に連れてってくれる日がある。そうか、今日だったのか。
「……ツナ」
俺が呼ぶと、ツナはちょっと困ったように笑って背伸びして、俺の頭に手を伸ばした。
「……お前が武だったね」
俺の頭を撫でるツナの手はいつにも増して控え目で、俺は悔しいやら悲しいやら情けない気持ちになる。俺はツナのために人間になったんだよ、人間の俺じゃダメなのかなぁ。
だからちょっと腰を落として、ツナの唇をちゅっと啄んだ。ツナは目をぱちくりさせた後でぎゃあと叫んでおののく。
「な、なにしてんの!」
「何って……元気になるおまじない」
「なにそれどこで覚えたの」
う、と俺は言葉に詰まった。正直に答えたらまたツナを泣かせてしまうんじゃないかと思ったから。でも訊かれたことには答えなきゃ。俺はゆっくり口を開いた。
「……母さんが父さんにしてたの見た」
それを聞くとツナは一瞬目を丸くしたけれど、泣き出すどころかクスリと笑ったので、俺はほっと胸を撫で下ろした。父さんと母さんはホントに仲が良かったんだ。何で喧嘩なんかしたのか、俺にはよく分からない。
俺は母さんの真似をして、あの時母さんが父さんに言った言葉をツナにも言おうと思った。でも口を開いても、その言葉が音声にならない。喉からひゅうと空気が漏れるだけ。ツナがどうしたの?と訊ねてくる。俺は諦めて口を閉じて、首を横に振った。神様、俺は確かに口がきけなくてもいいってお願いしたけどさ、こんな中途半端にしてくれなんて頼んだ覚えはねーよ。
どうやら人間になっても“好き”は言えないらしい。
その日も父さんは帰ってこなかった。俺はその日一日、ツナと一緒に人間みたいにご飯を食べて、人間みたいにお風呂に入って、人間みたいに話をした。勿論キャッチボールもした。ツナは昼間、俺と遊んでいるときはすごく楽しそうだったけど、夜になったらやっぱり寂しそうな顔をしていた。俺はそれが悲しくてツナをぎゅっと抱き締めた。ツナも俺にしがみついて、声を圧し殺して泣いた。人間は頬を舐めるなんてことしないだろうから、俺も今日はしないでおいた。しないかわりにぎゅっと抱き締めた。今頬を舐めたら多分、しょっぱい。
そして深夜。隣から小さな寝息が聞こえてきたのを確認して、俺はそっとベッドから這い出した。そっとツナの顔を覗き込む。可愛い。寝顔は犬の姿じゃ見れないからな、これでツナの秘密、また一つ知っちゃった。俺は物音を立てないように部屋を後にした。おやすみ、ツナ。
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